グレアム・ヤング (イギリス)
【1947~1990】
1947年9月7日、ロンドン・ニーズデン生まれ。
母親はヤングを妊娠中に胸膜炎を患い、ヤングを出産後、3ヶ月後に結核で死亡した。
後のヤングの凶行を、子供の将来を憂いて亡くなった母親は、天国からどのような気持ちで見ていたのだろうか (だが、母親がヤングを妊娠中に病気を患ったことから、その病気の影響が後のヤングの凶行に出ている可能性はある) 。
ヤングは父親の妹に預けられ、3年後に父親が再婚すると、祖母に預けられていた姉と共に父親たちと4人で暮らすことになる。
ヤングは極めて聡明な子供だったが、友達と遊ぶ事をしなかった。
自分よりも劣っている連中なんかと遊ぶ必要などないと思っていたのである。
次第にヤングは優等人種のみが生き残ればいいという発想になり、それはナチスドイツを知ってより強くなった。
尊敬する人物はもちろんヒトラーと、ヴィクトリア朝時代の毒殺魔ウィリアム・パーマーだった。
なぜ、ウィリアム・パーマーを尊敬していたかというと、ヤングは化学や薬品に幼少の頃から非常に興味があったからで、9歳の時には除光液を頻繁に盗んでいた。
また、どこで手に入れたのか、塩酸やエーテルを持っていたこともある。
ヤングは自室に実験室を作って薬物を調合するのが大好きだった。
ヤングは家族、特に継母との仲が悪く、また父親も前妻が死んだのはヤングのせいにしていたふしがあり、家族とはあまりうまくいってなかった。
そんな中、ヤングの最初の犠牲者が出る。
それはヤングの同級生で、ヤングと喧嘩した1週間後、激しい嘔吐に襲われたのである。
それは、ヤングから貰ったサンドイッチを食べた直後であり、鈍感な同級生はその後もヤングからもらったサンドイッチを食べ続け、そのたびに吐き、ついには寝込んでしまった。
ヤングはどんどん弱っていく同級生を間近で見て、たまらなく興奮したであろう。
毒殺魔には2種類あり、1つは瞬時にただ殺す事を目的とした毒殺魔と、もう1つは微量な毒を長期間に渡って使用し続け、弱っていくのを楽しむタイプの毒殺魔である。
ヤングは完全に後者で、被害者を長時間苦しめるという点では鬼畜の所業といえる。
1961年、ヤング14歳の時、ヤングはついに家族の食事に酒石酸アンチモンなる物質を混入し始める。
家族全員が腹痛に嘔吐、身体の痺れなどの症状を起こし、どんどん衰弱していく。
自室に実験室を作っていた事は、父親ももちろん知っていた。
その為、父親はヤングに実験を止めるよう忠告するが、まさか自分たちに薬品を混入しているとは夢にも思っていなかった。
多分、父親はヤングの部屋から漏れる臭いなどでそうなったのだと思っていたのであろう。
継母の症状は日増しに悪くなって行き、38歳だというのにすっかり老け込んだ。
その後、体重も急激に減り始め、数カ月のうちに老婆のようになってしまった。
そして、1962年4月21日に継母はついに死去する。
後のヤングの発言によると、相変わらずアンチモンを投与していたが、耐性ができてきたせいか、次第に効かなくなってきたので、死去した日は新たにタリウムを夕食に混入したらしい。
継母は病院に運ばれたが死亡し、遺体は検視解剖されることなく火葬された。
土葬ではなく火葬すべきだと強く主張したのはヤングであった。
日本と異なり当時のイギリスでは土葬が主流であったが、火葬技術が進歩し、土葬よりも遥かに魂の安らぎを得ることができるというのが、ヤングの主張だった。
継母の葬儀が行われたのだが、ここでもヤングは継母の兄にサンドイッチと共にピクルスを渡した。
案の定、継母の兄は激しい嘔吐に見舞われた。
数日後、今度は父親が激しい腹痛に見舞われた。
それは月曜日の朝に始まり、週末が近づくにつれ治まる、ということを繰り返した。
父親は薄々気付いており、ヤングを見舞いに来た時に看護婦に
「あいつを傍に近付けないでくれ」
と言った。
回復して退院するも、すぐに具合が悪くなって入院した。
医師は「ベラドンナ中毒」だと診察するが、それを聞いたヤングは大笑いし
「その医者はアンチモンとベラドンナの区別もできないのか」
と口走って犯行が発覚する。
家を訪問した刑事は、ヤングの部屋からアンチモン、タリウム、ジギタリス、イオノン、アトロピン等、数百人は殺せるだけの毒薬があることを発見する。
連行されたヤングは翌朝になって全ての犯行を自供。
精神鑑定によれば
「道徳観念が著しく欠如している」
だった。
ヤングの行動理念は「実験」の一言に尽きる。
ヤングは実験を観察し、記録することに力を注いだが、家族をその実験に選んだ理由が、
「そばにいてやりやすい」
からだけであり、それが家族だろうが他人だろうが誰でもよかったのである。
継母を初めに標的にしていることから、標的に個人的感情を多少含んでいる可能性はあるが、結局父親を含む周りの人にもやっていることから、ヤングはある意味、究極の合理性に基づく科学者と言える。
ヤングは15年間釈放されないことを条件にブロードムア精神病院に収容された。
ヤングが収容されて1ケ月後に、患者の1人が痙攣を起こし、数時間後に死亡した。
検視解剖の結果、死因はシアン化物による中毒死であることが判明した。
直ちに院内の調査が行われたが、シアン化物は何処からも見つからなかった。
結局、事件は迷宮入りになったのだが、ヤングは月桂樹の葉からシアン化物を抽出する方法を知っており、しかも、病院の周辺には月桂樹が繁茂していたのだ。
想像の域を出ないが、ヤングが入院した直後に死んだ事を考えれば、ヤングの犯行である可能性は極めて高い気がする。
1965年の暮れに、ヤングは退院許可の嘆願書を提出する権利を取得した。
しかし、この時は
「絶対に退院させてはならない」
と申し入れた父のせいで、嘆願を棄却された。
しかし、1970年に主治医は「完治」を内務省に報告し、翌1971年2月4日、ヤングは退院した。
ヤングは退院前に或る看護婦にこのような本音を明かしている。
「退院したら、ここで過ごした年の数だけ殺してやるんだ(ちなみにヤングが過ごした年は9年。そもそもこんな発言をする人間を退院させるのもどうかと思うが)」
退院後、ヤングは写真現像会社の倉庫の管理人の職に就く。
願ってもないチャンスが訪れたヤングは、早速、社員の食事に人間の神経系を冒すタリウムを混入し始める。
その結果、倉庫係長が背中や胃の激痛という症状を現し、死亡する。
また、他の倉庫係の1人は、ヤングが持ってきたお茶を飲んだ直後に激しい腹痛に襲われた。
病院に行くと、単なる食中毒と診断されるが、3週間も繰り返したので退社してしまった。
しかし、彼はそのおかげで命拾いする。
そして、次々と同僚たちが原因不明の症状が起こる。
激しい腹痛はもちろん、嘔吐に頭髪が抜け始めた者もいた。
ヤングは苦しむ同僚が弱っていく様を、観察し克明に記録した。
そして、ついに2人目の同僚も死去する。
さすがに異変に気付き、ついに医師団が派遣される。
全ての社員を面談した医師は、ヤングの医学や薬品の知識に驚嘆し、ヤングの過去を調べることにする。
すると、ヤングが過去に毒殺事件を起こしていたことが発覚し、ヤングは逮捕されることとなる。
ヤングの下宿先を捜索した警察は、様々な薬瓶や試験管の他に
『学生と警察の為のケースブック』
と題された一冊のノートを押収した。
ヤングが克明に記していた毒殺日記である。
ここではその詳細は省くが、ヤングが日に日に弱っていく人間を観察し、楽しんでいる様子が伺える。
結局、ヤングは2件の殺人と2件の殺人未遂、その他諸々の傷害で有罪となり、終身刑を言い渡された。
退廷後、ヤングは姉と叔母に謝罪した。
1990年8月初旬、ヤングはバークハースト刑務所で心臓発作で死亡した。
享年42歳。
誕生日を2週間後に控えての死であった。
∽ 総評 ∽
「心の無い人間」というのはよくシリアルキラー達に使われるが、実際にそんなことは決してない。
例えば以前掲載した「マーシャル・ストリートの狂人」ヘイドニックは、子供を作りたいと黒人女性ばかり監禁したが、子供を作りたいという自体で人間の心がある。
差別殺人鬼コーウェンも、ムカついた上司を殺すという発想自体、心がある証拠だ。
しかし、本件のヤングは正真正銘「心がない」人間に思える。
自身も
「おそらく、僕は彼らを人として見ることをやめてしまったんだと思います。彼らはモルモットになっていたんです」
「僕に良心があると云えば偽善になるでしょう。僕の魂は空っぽで、何も感じられないんです」
と発言しているほどた。
身内、他人、悪い意味で差別なく、自分の思うがまま人間というモルモットに毒を盛り、観察した。
毒殺というのは被害者も自分が被害に遭っていることすら気付かず死んでいくことも多く、そういう意味では惨たらしく殺されるよりはましなのかもしれない。
ただし、長期間に渡り苦しみ続ける可能性も高く、仮に一命をとりとめても、その後、後遺症が残ることも多い。
また、ヤングは金銭的、性的な動機や行動が全くなく、純粋に毒殺以外に興味がなかった。
個人的にレイプ殺人鬼はあまり好感が持てず、以前掲載したマッケイや本件のヤングのように、殺人に性的動機がないシリアルキラーには好感が持てる。
1994年に製作されたヤングの伝記的映画『グレアム・ヤング毒殺日記』では、ヤングは自らを毒薬実験に用いて死亡したとされている。
その真偽は判らないが、42歳という若さでの心臓発作という死亡原因、薬物による死亡原因がよく心臓発作となることから、あながち虚構ではないかもしれない。
ただ、それが事実だとすれば、如何にもヤングらしい死に様である。
【評価】※個人的見解
・衝撃度 ★★★★★★★★★☆
・残虐度 ★☆☆☆☆☆☆☆☆☆
・異常性 ★★★★★★★★★★
・特異性 ★★★★★★★★★☆
・殺人数 4人以上 (他被害者多数)
《犯行期間:1961年~1971年》
コメント
コメント一覧 (6)
彼も掲載してくれたらうれしいです。
そうですね。
いつか掲載したいと思います。
自分以外はどうなってもいいと。
欲望というもので他者を食いものにするにどっちがましとかないような気が個人的にはします。偉そうでスミマセン。
人間への興味が悪い方に出てしまった感じなんですかね、殺人鬼って。なんらかのアクション、反応を求めこういう事をしてるのは間違いないと思うので。バットコミュニケーションなんですかね〜結局
あると思います。
究極の傍観、対象は人間ではなく物。
普通の人間は物にすら愛情を抱く事がありますが、こういう異常者は物というよりも無機質、無でしょうか。
毒殺はもちろん知識がないと出来ないので、必然と頭の良い人間が多いです。
仰る通りその頭脳を別の方法で使っていればと思いますね。